対の構造とキャラクターの死、ユリ熊嵐感想

 2015年1月より放送が始まり3月に最終回を迎えたユリ熊嵐の放送から1週間が経過し、なんとなく自分の中での感想がまとまってきたので書き流す。記事の内容にはネタバレを含みますのでご了承を。

 

ユリとクマによる対の構造

 放送開始から最も目に付いたのがこのユリとクマによる対の構造だった。キャラクターによる対の構造は少女革命ウテナであれば"ウテナとアンシー"、"幹と梢"、"樹理と枝織"のように性格が異なるキャラクターを提示することでこれまでの幾原作品でも行われ、輪るピングドラムでは"冠葉と晶馬"の頭髪が"青と赤"であるように視覚的にも対を象徴するキャラクターが登場していた。今回ユリ熊嵐がイクニ作品において新しかったのはこの対の構造を世界観に落とし込んだ点であると思った。

 この対の提示は細部にまで行われていて、ユリの世界が現代風であればクマの世界は中世ヨーロッパ風であったり、ユリの世界で排除の儀が行われているならばクマの世界では銀子がヒトリカブトの銀子と呼ばれていたりという対の構造になっている。ユリの世界に存在するものは全て形を変えて熊の世界に存在し、熊の世界に存在するものは全て形を変えてユリの世界に存在する。ここに時代や世界が変わったとしても存在するものは存在するという幾原監督のメッセージを感じ取れる。

 

ユリでもクマでもない第三の存在

 物語の中にはユリでもクマでもない第三の存在として人間の姿をしながらもクマの耳が生え、手足もクマの姿をしたものが存在しする。しかしながらこの姿が生きられる世界はユリの世界でもクマの世界でも無いため、彼女らは最終話にてクマリア様に導かれ第三の世界へと旅立ち物語は終わる。

 映像としてもここはかなり重要でキャラクターがクマの本性を晒している場面ではクマの形で、ユリに近いシーンでは人間の姿で、どちらの要素も持った状態であれば第三の姿として描かれている。鮭に噛み付く写真を撮られてしまった際にクマに戻っていたり、最終回にて屋上の淵に立つ銀子が自分はクマだと言った際に第三の姿からクマの姿に戻ってしまうシーンなどが個人的に印象的だった。

 

キャラクターの死について

 今作において何人かのキャラクターが死んでいるがその多くのキャラクターが概念や別の形として復活している。針島はロボットの改造され、純花はクマリア様の姿として、蜜子は銀子の欲望の表れとして。ここに何か幾原監督のキャラクターに関する考え方のようなものがあるような気が個人的にはしている。アニメのキャラクターは命を持たないしいくらでもその形は変化できる、それがアニメのキャラクターだ。といった感じに。

 

最後に

 中盤の中だるみ感は否めないが終わってみればいいアニメであったことには間違い無いと思う。魔法少女まどかマギカの影響か自分の中でもアニメのキャラクターにも命があり、死んだら終わりという固定概念を打ち砕き、新しいキャラクターの可能性を見せてもらえた。また数年後幾原作品が見れる事を心から願います。