男女の恋愛はもう古い?おたくにカルチャーにおける恋愛の変遷とは

はじめに

 先日、アニメ「ユリ熊嵐」のスターティングガイドなるものを購入し幾原邦彦監督と漫画版を連載している漫画家森島明子先生へのインタビューにて幾原監督から以下の発言があった。

 幾原:例えば「愛」について描きたいと思ったとする。今、男女のキャラクターで恋愛を描くのは難しいと思う。「愛」ということ自体が、男女の関係で描こうとした途端に、もう「ネタ」じゃないですか。

 この発言を見てなぜこのような事態に陥ってしまったのか、ということを一度考えてみようというのが本記事の目的であり、特段幾原邦彦監督を否定する目的ではないことをご理解頂きたい。また、自分は生まれが1992年ということもあり、70年代、80年代については割愛させて頂く。その時代の学が無いので。

 

90年代のおたくアニメと美少女ゲームにおける恋愛の構図とは?

 まず初めに90年代におけるある程度名の通ったおたく向けアニメを挙げてみると「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」「機動戦艦ナデシコ」「少女革命ウテナ」「カードキャプターさくら」などがパッと思いつくだろう。これらの中で最もその後のアニメ史に残るアニメは間違いなく「新世紀エヴァンゲリオン(以下:エヴァ)」であることは間違いない。エヴァにおける最終的な視聴者へのメッセージとは「否定されることによって自我は確立する」というであり、愛についてのメッセージではないが恋愛もこのアニメの主軸の一部であるため、ここではエヴァの恋愛的な部分のみを抽出する。

 エヴァにおける恋愛的な構図はかなり複雑なものであり、説明しろと言われてもなかなかに説明が困難なものではあるが基本的には視聴者が自己投影するための自己(主人公碇シンジ)と多数のヒロイン(綾波レイ、アスカ、ミサトなど)が登場するという構図である。こういった自己と多くのヒロインという構図は同時期に発売されたKONAMI美少女ゲームときめきメモリアル」やkeyの「kanon」においても見て取れる。この構図における問題点は恋敵が存在しないことだ。エヴァにおいては確かに加持リョウジというキャラクターが存在しヒロインの一人であるアスカは加持リョウジに恋心を持ってはいるものの加持リョウジ自身が恋愛に絡むことはなく、あくまでアスカの教育者的な立場を取るし元々関係を持っていた葛城ミサトに対してもかなりそっけない態度を取ることが多い。よって実質自己と多くのヒロインという世界は守られているということになる。また、先ほど挙げた美少女ゲームときめきメモリアル」においての男性キャラクターは主人公とヒロインの好感度を教えてくれるだけで恋愛そのものには干渉せず「kanon」における男性キャラクターに至ってはヒロインのルートに入った以降はほぼ登場しないレベルとなっている。さらにゼロ年代に入ると同じくkeyより「Air」という美少女ゲームが発売される、本ソフトにはなんともう男性キャラクターは主人公以外登場しない。細かいことを言えば過去編に多少登場するのだが別の時間軸のため干渉が不可能である。こういった恋愛ドラマであれば必ずと言っていいほど存在する恋敵が除外された自己と多数のヒロインという構図の流れはこの後のゼロ年代におけるセカイ系において勢いを増すこととなる。この段階ではまだおたくアニメが描くものは男女の恋愛であることは間違いない。

 

ゼロ年代前半

 ゼロ年代前半といえばセカイ系というくらいにはセカイ系の時代であった。まずは東浩紀らが定義したセカイ系の記述を確認したい。以下はwikipediaに記載されたセカイ系の定義である。

 >セカイ系とは「「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられた[9]

 これがセカイ系の定義であり、おたくカルチャーにおける恋愛の変遷を考える上で重要なのは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性」の部分である。この時点でセカイ系における恋愛は全て男女であると言っても差し支えないだろう。しかしながらこのセカイ系の定義はかなり不安定なことでも知られており反論の余地はいくらでもある。もしかしたらこのゼロ年代前半において自分の知らないところでホモのセカイ系が存在するかもしれない。しかしここで重要なのはそういった作品が世に出回っていたとしても多くの人に認知される作品には至らなかったという点である。よってこの時点でもまだ男女の恋愛がおたくカルチャーの中でメインとして描かれている。このセカイ系京都アニメーションが製作した「涼宮ハルヒの憂鬱」が放送された2006年以降衰退を始める。

 

ゼロ年代後半 

 2007年、京都アニメーションは「涼宮ハルヒの憂鬱」のあとkey作品である「kanon」のアニメ化を挟んだ後「らき☆すた」を製作した。本作品は大きなブームを巻き起こしたがその内容はおたくの女子高生の日常が描かれているだけで男性キャラは主人公の女子高生泉こなたの父親くらいのものであり、物語に何か大きな目的があるわけでもなく言うなればサザエさんクレヨンしんちゃんなどのアニメとなんら変わりない、ただちょっと二次元美少女が多い点を除いて。エヴァからゼロ年代までのおたくカルチャーにおいては実写ドラマでは必ずと言っていいほど存在する恋敵が除外されてきたが本作ではついにおたくが自己投影する存在が除外されてしまったのである。この流れは広がり続け、2007年には美術高校に通う女子高生を描いた「ひだまりスケッチ」、同年にある三姉妹の日常を描いた「みなみけ」、2009年に軽音部の日常を描いた「けいおん!」などが登場する。「みなみけ」の2期である「みなみけ おかわり」においてアニメオリジナル展開として三姉妹の住むマンションの隣人に同世代の男が引っ越してきたところ多くの批判を受けたのは記憶に新しいと思う。このようにゼロ年代後半のアニメはおたくが自己投影する主人公を一辺倒として排除し、二次元美少女の日常を眺めるだけの構図となった。このあたりから男女の恋愛をメインに据えた作品が描かれることは次第に数を減らしてくる。2009年に放送された「化物語」では確かに主人公阿良々木暦がヒロイン戦場ヶ原ひたぎと恋仲になるのだが、話が進むに連れて恋仲である戦場ヶ原ひたぎの登場回数は減っていき不遇のメインヒロインとまで呼ばれる。このようにファンタジー作品においては男女の恋愛が描かれる場合があるがその中でも「化物語」は完全に恋愛をメインに据えてないことがよく分かる作品である。 

 アニメはこのように自己投影すべき主人公を省いたり恋愛をメインに据えない方向に向かうのであるが自己投影されるべき主人公が必ず必要でありさらに恋愛がメインになる美少女ゲームゼロ年代後半においてどのような形となったのかをここで一度見てみることにする。「kanon」や「Air」を生み出したkeyは2007年に「リトルバスターズ!」を製作した。往年のkeyファンからするとこの「リトルバスターズ!」という作品はかなり異質なものであった。まず主人公の友人が過去の「kanon」「Air」と比較して非常に多くヒロインの個別ルートに入る前の日常シーンにおいては下手するとヒロインよりもその友人との絡みのシーンの方が多いくらいである。またプレイヤーを泣かせにくるシーンもどちらかといえばヒロインとのものより友人とのシーンが多く愛というよりは友情物語寄りと言える。挙句の果てには筋肉ルートと呼ばれる友人とのルートまである始末である。これに対して往年のkeyファンの反発は凄まじいものであったが同時に多くの新規ファンを呼び込むことにも繋がった。

 

テン年代の始まり

 2011年、ごらく部に所属する女子中学生を描いた「ゆるゆり」が放送される。ここでついにキャラクター同士の明確な恋愛が行われるのであるがタイトルにもある通り女キャラクター同士の"百合"でありさらにかなり"ゆるい"内容となっている。このアニメにおいても視聴者のおたくが自己投影すべき存在は無く可能なことはただ眺めることだけである。これに対しておたくが脳死しているという意見が出るのは当たり前の話であるがひだまりの宮子、ゆるゆりの京子は可愛いから、仕方ない。 

 そして、2011年は「魔法少女まどか☆マギカ(以下:まどマギ)」が放送されたということで大きな意味を持つ年となる。本作品はジェンダー的な観点から色々と語りたい点は多くあるがとりあえずその話は置いておく、また別の機会にでも。まどマギはファンタジー作品でありながらもこれまで放送された日常系と同じようにおたくが自己投影する男の主人公は存在せず、主人公鹿目まどかとその友達である暁美ほむらとの友情が描かれている。ついにファンタジーの世界からも男の主人公が除外された瞬間である。魔法少女モノなんだから女性が主人公で当たり前だという意見もあると思うが本作はハッキリ言って魔法少女モノという枠に収まり切れないためこのような表現をさせてもらう。

 2013年、まどマギの劇場版である「魔法少女まどかマギカ[新編] 叛逆の物語」が放送される。この作品が今後テン年代後半のターニングポイントになるのではと個人的には考えている。ついにこの作品においてはアニメ版では友情止まりであった主人公鹿目まどかとその友達である暁美ほむらの関係がその一歩先へと進展する。ハッキリ言って百合を通り越したレズ作品と言っても過言ではない。インターネット上では暁美ほむらのことを"サイコレズ"などと表現するに至った。さらにこの作品で注目すべき点は主人公鹿目まどかとその友達である暁美ほむらの関係が世界の崩壊に直結してしまったことである。この構図はまさにゼロ年代前半のセカイ系ではないか。2013年、衰退されたと思われたセカイ系は日常系アニメを経由し新しい形でその姿を見せたのである。

 2013年といえば「艦隊これくしょん」のサービスが開始された年でもある。内容としてはプレイヤーは提督になり擬人化された艦隊(艦娘)を育成するゲームであるが、自己投影する提督という存在はあるものの確たるキャラクターがあるわけではなく二次創作における提督の描かれ方も様々である。このようにゲームからもついに自己投影する主人公の存在が薄くなり始めているように感じる。

 2011年に放送されたアイドルの成長を描いた「アイドルマスター」においては視聴者が自己投影可能な"プロデューサー"という人物が登場するが、同じアイドルの成長を描いた2013年の「ラブライブ!」にはそういった人物は登場しない。細かい点ではあるが少しずつ自己投影可能な男の主人公が減少していることをこれもまた象徴している事案であると思う。

 そして2015年、ユリ熊嵐において男女の愛はユリと熊という自己投影がなんとも難しい形に変換され表現されるに至るのである。

 

まとめ

 ここまでの一連の流れを見ると男女の恋愛が減少し女性キャラクター同士の恋愛を描く作品が増加、それに併せるように自己投影できる存在も減少してきているのが分かる。この流れ対して男女の恋愛に関するデータベースを消費し尽くしたと考えるのは明らかな間違いだ。90年代からゼロ年代前半において「ひきこもり」という単語をよく目にし、そのひきこもりが題材となった滝本竜彦著「NHKにようこそ」は大ヒットとなりアニメ化も行われた。事実おたくは90年代からゼロ年代前半において現実から目を背けるようにアニメの主人公に自己投影を行った。この時代によく「◯◯は俺の嫁」という言葉を耳にしたがあったがあれはおたくがアニメに対して自己投影を行っていることの表れとして捉えられる。

 このようにおたくがアニメに自己投影をやめてしまった、または辞めざるおえなかったという流れによって男女の恋愛を直接的にアニメで描くことはギャグになってしまったのだ。批評家宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」において、セカイ系をひきこもり的・心理主義的なものとして批判していたわけだが、これについては脱却できたとも言える。

 では何故おたくはアニメに自己投影をやめてしまったのか、または辞めざるおえなかったのか。これについてはまた別途考察していきたい。

 

最後に

 一生僕は初号機パイロット碇シンジです